57日目 【中編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話
1年生の秋口から登校拒否の始まった息子。当初選んだのは「特別支援学級」だった。
どの学校にもある、よく花とか木とかの名前がついてるあの特別学級の事だ。
「支援級にいくほどなのか…」とショックを受けたのが、ほんとにもう正直なところだったが、もう既に登校拒否をこじらせており、本人が行く気になってくれたら何でも良いと思った。
1年の冬から慣らしで通わせてもらい、2年になってから正式に支援級の児童となった。
だが、結果的にはこれが良くなかった。
まず、2年になってからついて頂いた担任の先生が支援級が初めてだったのもあってか、発達障害への理解が全く足りてない。
うちの子が読み書き障害だったのを把握していたはずだったが、音読や書き取りの宿題を普通に出してきていた。
更に、不登校からの復帰だったため「なるべく、給食までに登校する」という目標を立てていたにも関わらず、本人には「他の子達はもっと早く来ている」という注意をして早く来させようとする
これが決定打となって、息子は学校どころか外にも出なくなってしまった。この時、2年生の5月。支援級に入ってわずか1か月のことだった。
それから、息子はずーっと家にいた。
家でずーっとマイクラをやって、ごはんの買い物すらついてこない。
そして、ずっとゲームの話をしている。1分も黙っていられない。ずーっと喋ってる。
ADHDの特性の一つだとは聞いていたが、これが思った以上にきつい。家にいるならいるで、せめて用事の無いときは黙っていたいのだが、それが許されない。
掃除や料理をしている間も話しかけてくるからはかどらない…でも、妻が帰ってくるまでに終わってないと怒られる。
妻は、一旦機嫌が悪くなると子供達にも八つ当たりを始めるから、なんとしても家の事は妻の仕事中に終わらせなければならない。
いつになれば終わるんだこの生活…。
全く先の見えない生活は、3カ月くらいで限界がきた。
トイレに何分もこもったり「ちょっとお買い物行ってくるね」と言って30分くらい河川敷のベンチに座ってボンヤリしたり…。
そして、結局家事が手につかず、帰ってきた妻になじられる。
「ごめん…でもどうしても体が動かなくて」と伝えても「家の事もできないならいないのと一緒!」と怒られる。
ああ、居場所がないな…と感じた。
このままだといつまで経っても仕事は始められない。僕はずっと、子供の面倒を見ながら妻に怒られる毎日を送り続けることになるのだ。
この頃から割とフランクに「ああ、死ねばいいか」と思うようになった。
これも、いまとなっては「俺には、いざとなれば死を選択肢に入れられるから、怖いものは無い」という開き直りになってるから、悪い事ばかりではない…のかもしれない。
実はこれをこじらせたある日、一回だけ警察のお世話になった事があるんだけど、それはまた別の機会にする。
死のうかな…と一旦思い始めると、何事にもやる気が起きなくなってしまう。
何か嫌なことがあると、すぐ死に逃げようとしてしまう。
自死を考えるのは色んな人の、色んなケースがあると思うけど、僕自身は「死を選択するのが一番ラク」という思いだった。
それでも、最終的にいつも踏みとどまったのは「まー、息子が不幸な気持ちになるだろうな。それだけいやだな」と思ったからだった。
一人トイレにこもって、死が自分を見てくるたびに「息子が明日も笑ってくれればいいなあ」と思って死を飲み込んできた。
どうしようも無くなった僕は、市の運営する相談ダイヤルに電話をした。
いわゆる一般で言うところの「いのちの電話」というやつだ。
正直架けたところでどうしようもない。そもそも何を話していいのかもわからない。
「ここに架けたから死を踏みとどまれました!」という体験談も、別に聞いたことが無い。
そして、僕は別に死を止めてほしいわけでもない。
何なら「あー、それはやばい。マジで死んだ方がマシかもしれないっすね」くらい、背中を押してほしいとすら思っていた。
矛盾してるのは承知だが、止めてほしくないけど、ここで死ぬのが正しい選択なのか自信が持てなかった。
なんか、さすがにいまこうして書くとゾッとするが「多分、今の自分は死を選択するのが合ってるんだろうけど…でもどうだろう」くらいに思っていた。
電話が繋がって、とりあえず今置かれている状況と、日々どんな気持ちで生きているかを喋った…気がする。ごめんなさい、実際にはあまり覚えてない。
多分、ここで「放課後デイサービス」を薦められたと記憶している。
放課後デイサービスとは、療育の必要な子を対象にした学童保育みたいなもので、名前の通り本来は学校が終わってから通所する場所だがうちのような不登校児も受け入れの対象になっているのだ。
存在は知っていたし、クリニックでも説明は受けていたが、そもそも外に出たがらない子をどうやって連れて行くのか、とか行ったところで続かないんじゃないか、とか。
何より、行きたくもないところに無理やり連れていくのはかわいそう…と思っていた。
うまく伝えられたかどうかはわからないが、上記のような事をモヤモヤと話した気がする。
すると、担当の方(一般の命の電話と違って、向こうは市の職員だったと思う)からは
「そうかもしれないけど…でもお父さんが死ぬよりはマシだと思うので、デイがうまくいかなかったらまた考えましょうよ」と言われた。
まあ確かに…死ぬよりはマシかも。
なぜかストンと腹落ちした僕は、その日から放課後デイサービスの情報を調べ始めた。
そして、送迎があってなるべく勉強よりも遊びの時間が長い所を見つけて、そこの見学に行った。
本人は、外に出るのも地下鉄に乗るのも不安そうで、着いても僕の背中にかくれてキョドキョドとしていた。
「みんな何かしら特性に悩んでる子達の集まりだし、最初はこんな感じなので大丈夫!」
と先生に言われ、不安ながらも登録の手続き等々を済ませた。
利用開始日当日も、随分不安そうに車に乗っていった。
なんとなくこっちも寂しく感じながら送り出したけど…それでも一人になった瞬間の解放感もすごかった。
誰にも邪魔されず掃除機をかけて、掃除機が終わってすぐソファに寝ころんだ。
目をつぶりながら考えていたのは「あー、笑って帰ってきたらいいなぁ」ということだった。多分、口にも出してた気がする。
そこから週3回、学校には行かないがデイサービスには通うようになった。
当然といえば当然だが、デイサービスでは特性に合わせて接してくれるので本人も居場所が作りやすかったようだ。
すごく印象に残っているのが、ある日デイが休みで家にいる時。
ずーっとゲームばかりやっていた息子が、紙に絵を描いていた。ゲーム画面をイメージした、人と何かのキャラクターが向かい合ってファイティングポーズをとっている絵。
本人からしたら何でもない、その時やりたいことをやった結果だったのだと思うが、僕にとっては数カ月ぶりに見た『ゲームの世界から少しだけ出てきた姿』だった。
うまく説明できないけど、この時に描いた絵を見るたびに、大変だったこの頃に少しだけ起きた幸せな気持ちを思い出すので、今でも冷蔵庫にマグネットで貼り付けて、たまに眺めている。
ここでちょっとずつ、家の外で人と遊ぶことに抵抗が無くなってきた彼は、また復学し始めた。
学校ともう一度よく話して、本人が出てこられる時間で行く事と、学習障害の状況に合わせた修学をしてもらう事を合意した。
この時点で2020年の1月。支援級での復学に失敗してから実に8か月が経っていた。
この頃、僕は在宅と夜勤の仕事を掛け持ちしていたので、ろくに寝る時間もなく毎日常に頭の血管がドクドクなってる音を聞きながら生活していた。
不思議なもので、あんなに『何かあれば死ねばいい』と思っていた人間が、いざ体が死に近づくと『このままだと死ぬ!早く寝ないと!』と毎日焦って過ごしていた。
それでも本当に少しずつ、元の生活が戻りかかっていた。
一応は子供は学校に行き、僕も仕事をしている。
しかし、そんな毎日が突然変わったのは、コロナによる緊急事態宣言だった。