56日目 【前編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話
昨日、めちゃくちゃ暗い話書いちゃったから、明るい事を書けるように頑張ります。
当時から今までの長男の状況について。
(過去、前垢の時から何度も書いてますが…自分用の備忘録も兼ねてまた書きます)
元々、体の成長が著しく遅れる先天的な障害を持って生まれた長男。
3歳時で、1歳の子達に混ざるとどこにいるんだかわからなくなるくらい小さかった。
それでも…いや、そのおかげなのかうちの家系にしては運動神経が良くて、保育園で3~4歳から1回教えただけで倒立や側転が出来てたそうな。
おゆうぎかいや運動会で、いっつも一番前で目立つ子だった。
でも、家では変にはしゃいだりもせずおとなしくいう事を聞く、いわゆる「いいこ」だった。
状況が変わってきたのは、保育園年長の最後の方。いよいよ遊びや運動ばかりじゃなくお勉強も、となったころ。
文集に書く「しょうらいのゆめ」が書けない。
いくらどう教えてもひらがなが書けるようにならない、と先生が頭を抱えていた。
その時点では『まあ確かに、自分の子供の頃も学級に数人いたよな…』くらいに思って気長に見ていた。
しかし、小学校に入学して、ますます状況が悪くなっていく。
音読ができない。プリントに書いている字も読めない。
字が読めないから、どの授業でも話にならないくらい理解が進まない。
「しまった…入学前にもっと一生懸命勉強させておくべきだった…!」
なるべく付きっ切りで音読に付き合ったり、宿題を見たりしたが…「なんて書いてあるかわからない」としか言わない。
一文字ずつ指をさせば読めるのに、文になると読めない。
そういったものがあると知った今なら「ああ、典型的なLDだ…」と思っていた所だが、当時の僕は不勉強で、そんなものの存在も知らなかった。
とにかく文に慣れさせるために、沢山本を読ませて沢山文字を書かせた。スパルタでも仕方ないと思っていた。
恐らく、学校でも同じような方針で指導してくれていたと思う。
そして、2学期が始まるころ。息子が、布団から出てこなくなってしまった。
最初は「ちょっと様子を見ながらいけるときにちょっとずつ行かせよう」と思っていたが、そんな日は全然来なかった。
そして、学校から「発達のテストを受けてみてほしい」と言われ、クリニックに連れて行き、そこでようやく、息子が発達に遅れがある事を知った。
発達障害は、大きく三つあるとされている。
・ASD(アスペルガー):コミュニケーションがうまく取れず、輪に入れなかったり、無意識に人を傷つける言動を取ってしまう
・ADHD:注意欠陥や多動。頭がごちゃごちゃして考えがまとまらず、物忘れが多くなったり黙って座ってられなかったりする
・LD:学習における障害。読み書きや簡単な計算など、通常は脳で整理できることがうまくできない。
息子の場合、これが3つとも該当する状態だと言われた。
周りの子達が当然のように理解していく事を、自分だけが理解できずにいる事に強いストレスを感じて、塞ぎ込んでしまっている、という事だった。
よく覚えてるのは、一緒にやった「バウムテスト」の結果。
"理想とする自分と、現実とのギャップの大きさに思い悩んでいる。年齢的に「自分が思ってるより、自分は能力の低い人間だった」という事を認める事はものすごいストレスだろう"
学校にいけない理由は、ずばりこれだと。学校に行くと現実の自分と向き合わなければ行けないから。
妻は、特に息子の学習障害を受け入れるのにかなり時間がかかっていた。
自分用の本棚を置くくらい本が好きな妻は「文字の無い世界で生きるなんて、本人はどれだけツラいか」と漏らしていた。
僕は…バウムテストの結果を見ながら「俺と同じだな」と思っていた。
「理想とする自分と、現実とのギャップ」「自分が思ってるより、自分の能力が低い」
こんなの、今まさに僕自身がぶつかってる事じゃないか。
そんな壁に、6歳の子供が当たってるなんて、どんなにつらいだろう。
かわいそうだな、親にも理解されなくてツラかっただろうな…
この時に、この子がどんな形でもどんな世界でもいいから、とにかく自信をもって前を向いて生きていけるように育てていこう、と決めた。
仕事を辞めて、ずっと一緒にいて、どうしたらこの子が自信を持って生きて行けるか考えよう…
ここからが、僕と地獄が一番接近する日々の始まりだった。