今日もベランダ日和

琴線に触れたニュースや出来事の感想をまとめていく場所になる…予定です

63日目 在宅で仕事に復帰

今日から仕事復帰。

 

大したことはしてないが、やっぱ「仕事してる」ってだけで疲れるもんだね。

 

ちょっとずつ元の生活に戻ってきてるが…

 

筋トレは一ヶ月できない。あんなに落ちなかった体重が一気に10キロ落ちた。

 

ゲームやる体力があんまり無い(夜、気づいたら寝てる…)

 

Twitterをほとんど見てない(あんまり書けることもなくて 汗)

 

いわゆる「元通りの生活」って意味だとまだまだ先のことなのかも。

 

早く、夜中まで起きてゲームできるくらい体力戻したいなぁ。

 

そのためにはあれだ。なんせかんせ歩かなければ!

62日目 息子と二人で過ごす日

退院後、今日まで自宅療養日。

 

平日だから、みんな学校やらで外に出てるわけだが、息子は金土で宿泊学習に行っていたから今日が振替休日。

 

不登校で毎日ずっと一緒にいたのがもう3年前。いまは下の子もいて、2人でなにかするるということが滅多に無くなった。

 

今日、一番盛り上がったのは、スマブラのキャラを新日本プロレスの選手に見立てて「クラウドオカダ・カズチカ」「セフィロスジェイ・ホワイト」とか言って、CPU同士で戦わせながらタイトル戦をしていく、という遊び。

 

途中「あれ?後藤選手はサムス…?いや、アイク??」「ヒロムはソニック?」とか、設定忘れてオタオタしたりして、もはややってるこっちも何がなんだか。

 

でも、試合結果出るたびに二人で盛り上がって、息子が試合のたびに「ほら!ちゃんと曲流して!」って僕のCD使って選手の入場曲流してから試合始めたりして。ほんと、プロレス好きだなお前。嬉しいよ。

 

あっという間に夕方。家族が順番に帰ってきてからは、自然とママのご飯用意の手伝いを始める「いつもの息子」に戻った。

 

小学校5年生。

 

ソファに寝そべる姉に「お前も何かしろよ!」といい、妹に「こっちのおはし並べて」とか指示してバランスを取ってる息子を見て、不登校のあの日が何か遠い昔みたいに思えてきた。

 

実際には、IQを考えても高等支援学校に入れるか微妙なグレーゾーンなので、どういう人生を歩ませるか真剣に考えなきゃいけない時期なのが正直なところ。

 

けど今は…立派だなぁ、と思っておく。

 

 

 

 

ささ。明日から在宅で仕事再開。皆に迷惑かけたけど、復帰すんの不安だー。でも頑張る。

61日目 明日退院

Twitterはちょこちょこ入れてたけど、今回は思った以上に回復時間かかった。

 

 

遡ること9月14日。

朝一で手術。

 

「まず、弱めの麻酔から入れます。…いま聞こえますか?じゃあ次、本格的な麻酔入れますね?ゆっくり深呼吸してください」

 

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ここからICUで一通りの管と足のマッサージ機をつけられてるところまで時間が飛ぶ。

 

前回の手術は子供たちがキャッキャと寝室で遊んでる夢をみたが、今回は夢も何もなくワープしてくるような感覚で現実に戻ってきた。

 

女性の看護師さんが「痛いところありますか?」と聞いてきてるのがうっすらと聞こえる。

 

尿道がいたい」

「ごめん、尿道は絶対痛いんだ」

「手術より、カテーテルが嫌いなんだ…w」

「よく言われるわぁw」

 

この辺でまた、意識が飛ぶ。

 

ここからは、断片断片で寝たり起きたり。

 

痛くなって痛み止め入れてもらって、また寝て。

 

いい加減寝相変えたいなと思ったら心電図取る機械が外れて大きい音がなったり。

 

 

 

 

で、今回はここで夢を見る。

 

実家で、母がアイロンかけようとしたところで、そのアイロン台に突っ伏して寝てる。

 

僕「おい大丈夫か?」

母「あらぁ寝てた。ちょっと頭痛くてね」

 

普段、体調崩すことなんてほぼ無い母の様子に心配した僕は、布団を引いて

「コロナとかあるから怖いな。とりあえず寝な。代わり出来ないこと多くて申し訳ないけど…」

ととりあえず寝かせようとする。

 

「家で優しいのはお前だけだね、ちょっと休んだら大丈夫だから」

 

 

 

 

 

ここで目が覚めた。

 

そういえばよく言われてたな。「家で優しいのはお前だけだね」って。

 

そう言われるのが嬉しいから、なるべく家でも外でも、人からそう言われるように振る舞ってたな。

 

結果、損することの方が多かった気もするけど…

 

 

 

 

なんて振り返ってたら、つけてたラジオから「水曜JUNK 山里亮太の不毛な議論」が流れてくる。夜1時か。

 

ここから、痛いしいい加減体力も戻ってきて眠れないしで長い時間が続く。

 

そして「あと何時間後には、このカテーテル抜くんだ…」という事しか考えられなくなる。

 

 

朝。

 

鼻の酸素機が取れ、足のマッサージ機が取れ、立ち上がる練習から始まる。

 

まあこれが苦手。めまいに勝てない。

 

それでも、我慢しながら立って、歩いて。

 

じゃあ通常病棟に戻りますね、と。

 

で、カテーテル抜いてもらったけど、ああやっぱり今回も痛かった。

 

アレより痛いものは無いね。

 

 

で、病棟に戻ってきてから今日までは痛みと「お腹に力が入らなくておならがでない」というツラさに耐えつつ、とにかく歩く。

 

最近は「歩ける体調ならとにかく歩いて回復を促す」という考え方らしいね。

 

一日2時間くらいは歩いてると思う。

 

でも、筋トレはもうしばらく禁止だって。

 

開けた穴が大きくて、塞がるのにしばらくかかるらしい。

 

ああ、腕細くなっちゃう…。

 

 

そうそう、こんなところでなんだけど、ダイエットで目標にしてた「70.0kg以下」は、ここでひっそりと達成された。

 

この1ヶ月で10kg近く落ちてしまった…。

 

さ。そんなこんなで、明日の午前中で退院、ということになった。

 

え、おへそ隠してるテープとかまだ外れてないけど!?大丈夫なの!?

 

そして、今回の入院は歩いてるかお腹痛いかの2択だったから、せっかく持ってきた3DS全然使ってない!もったいない!

 

…なーんて、とにかく早く帰りたいわ。

 

早く明日が来るように、今日はこれで寝ます。おやすみー。

60日目 手術前

明日手術。

前乗りして今日の昼から入院してる。

手術前日のそわそわした感じ、いやだなぁ…

でも、これ終わって傷がふさがったら、また筋トレ再開できる。

いままで制限してた普通のご飯も食べられる。

今まで、脂ものを徹底的に排除してたから反動で沢山食べちゃいそう。

気を付けないと体重戻るな…。

体重は体重で、現状のものをブログに更新しないと。

明日朝から手術で、そのあと丸一日リカバリー室。戻ってくるのは明後日の日中。

英語の勉強も、今日の夜やって日付またがったらすぐにまたやらないと、連続記録途絶えちゃうわ。

せっかくまた3DS持ってきたからやりたいのに、緊張して手につかない。

全身麻酔だから、気づいたら終わっちゃうのにな。

そうそう、緊張して手につかないとか言っといて、さっき昼から寝ちゃって、夕ご飯の時間まで目覚めなかった。

なんやかや、疲れてんのかね。毎日それなりに忙しいもんなやっぱり。

さーさー、明日元気に手術受けるために、今日は楽しい事考えましょ。

おやすみ。

59日目 息子は俺をトレースしてる

最近は息子が新日本プロレスの沼にはまっている。

試合がある日は、すべてNJPW WORLDで試合チェックしてるし、気づけば主要な選手のオリジナル技は大体技名を把握している。

若手まで顔と名前一致してるし…ほんと、はまったらとことんなのは僕と一緒。

ドロップキックの練習し始めたり、ザックの関節技見て自分の手足にかけてみたり。

最近は新日本プロレスのキャラ育成が出来るスマホアプリをずーっとやってる。君、FPSスマブラ以外もできたんか…。

遂には、スマブラを自分で操作せず、CPU同士で対戦させて試合結果をメモしたりする「ファイプロ式ゲーム観戦」までし始める…
(過去にも一度、そういう遊びをしていたことがあるが、ここまで本格的じゃなかった…)

どこまで僕と同じ人生をなぞるつもりなんだ…。

でも、そんな息子とG1の優勝予想やその日その日の試合の感想を言い合うの楽しい。

思えば、周りにプロレスファンがそれほど多くなかったからな…(はむ太郎くらいしかいなかったのでは)

それが同じ家に住んでる人と話が出来るなんて、幸せ者なのかもしれない。

 

 

58日目 【後編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話

まあ、コロナの話を今更しても仕方ないんだけど…

北海道は、道知事の動きが相当早くて、他県よりも先に緊急事態宣言を発令させたと記憶している。

それによって、デイサービスも学校も休みになった。下の子の保育園はなんとか卒園まで運営してくれた。

卒園式の祝辞みたいのを僕がやったが、めちゃくちゃ恥ずかしかった。もう2度とやらない。

いまにして思えばすごい事だけど、感染者数が1桁みたいな日がしばらく続いて、4月の始業式(下の子の入学式)は通常に行われた。…けど、そこからすぐまた感染者数が増えて4月の新学期開始直後にまた休校、というような流れだった。

今度は、小学校だけでなく上の子の高校も、ついでに妻の仕事も休業となり僕は夜勤の仕事が無くなってしまった。
(夜勤の仕事については契約上問題もあったんだけど、それはここでは割愛)

ここで、入学したばかりの下の子が、学校に行けない事を寂しがって「ねえ、学校ってどんなことするの?」「どんな行事があるの?」としきりに聞いてくる。

それを聞いてた息子が、あんまり知らないくせに「小学校は、運動会と学芸会があって・・・給食食べて・・・」とか頑張って説明してて。

そのまま妹の『学校ごっこ』に付き合ったりしながら休みを過ごすうちに、下の子が「学校でちゃんと過ごせるかわかんない、こわい」と言い始めるようになった。

そのたびに「大丈夫だよ、僕も一緒に行くんだから」と答えていて『そんなこと言って大丈夫!?』と思ったんだけど…

いざ、休校が明けたらシレっと二人で学校行くようになった。

ほんと、拍子抜けするくらいあっさり。毎日遅刻もせず学校に行くようになった。

学校での授業も普通に受けているらしい(だいぶ遅れは出てるけど…)

どうやら『これは自分にしかできない事だ』と思うと体が動くらしい。

今までは『自分がいなくても誰も困らない』『自分が必要とされる場面は、学校にはない』と思っていたからいけなかったけど。

少なくとも、妹の不安に寄り添えるのは自分しかいない。だから学校に行く。

更に、いざ学校に行ってみると、いつのまにか下級生がいて、更に自分よりも重い障がいを持つ児童も沢山いる。

移動時に物を持ったり、人に何かを説明したり。場をまとめたり…自分の力が必要な場面は思っていた以上に多かったようだ。

そうして、息子の登校拒否は終わった。ここからは、コロナの学級閉鎖と病欠以外は毎日学校に行っている。

僕も、そこでようやく本格的に就職できるようになり、約2年ぶりに定職に就いた(まあ、そこからまた転職したけど)

支援級の級長になって、今日はあんなことをした、と聞いてもいないのに沢山教えてくれるようになった。

来週、普通級の子達と一緒に宿泊学習に行くが、それも楽しみなようでせっせと準備をしている。

ここまでの2年、仕事できなくてお金もかかったし、ゴール見えなくてほんと神経もすり減った。

ついでに言えばこれが全然ゴールじゃなくて、将来的な進路や就職の事、壁も課題も山積みだけど…

まずは今、子供たちが学校生活を送って、自分は仕事に出られているというこの状況に感謝して、毎日を送りたい。

57日目 【中編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話

1年生の秋口から登校拒否の始まった息子。当初選んだのは「特別支援学級」だった。

どの学校にもある、よく花とか木とかの名前がついてるあの特別学級の事だ。

「支援級にいくほどなのか…」とショックを受けたのが、ほんとにもう正直なところだったが、もう既に登校拒否をこじらせており、本人が行く気になってくれたら何でも良いと思った。

1年の冬から慣らしで通わせてもらい、2年になってから正式に支援級の児童となった。

だが、結果的にはこれが良くなかった。

まず、2年になってからついて頂いた担任の先生が支援級が初めてだったのもあってか、発達障害への理解が全く足りてない。

うちの子が読み書き障害だったのを把握していたはずだったが、音読や書き取りの宿題を普通に出してきていた。

更に、不登校からの復帰だったため「なるべく、給食までに登校する」という目標を立てていたにも関わらず、本人には「他の子達はもっと早く来ている」という注意をして早く来させようとする

これが決定打となって、息子は学校どころか外にも出なくなってしまった。この時、2年生の5月。支援級に入ってわずか1か月のことだった。


それから、息子はずーっと家にいた。

家でずーっとマイクラをやって、ごはんの買い物すらついてこない。

そして、ずっとゲームの話をしている。1分も黙っていられない。ずーっと喋ってる。

ADHDの特性の一つだとは聞いていたが、これが思った以上にきつい。家にいるならいるで、せめて用事の無いときは黙っていたいのだが、それが許されない。

掃除や料理をしている間も話しかけてくるからはかどらない…でも、妻が帰ってくるまでに終わってないと怒られる。

妻は、一旦機嫌が悪くなると子供達にも八つ当たりを始めるから、なんとしても家の事は妻の仕事中に終わらせなければならない。

いつになれば終わるんだこの生活…。

全く先の見えない生活は、3カ月くらいで限界がきた。

トイレに何分もこもったり「ちょっとお買い物行ってくるね」と言って30分くらい河川敷のベンチに座ってボンヤリしたり…。

そして、結局家事が手につかず、帰ってきた妻になじられる。

「ごめん…でもどうしても体が動かなくて」と伝えても「家の事もできないならいないのと一緒!」と怒られる。

ああ、居場所がないな…と感じた。

このままだといつまで経っても仕事は始められない。僕はずっと、子供の面倒を見ながら妻に怒られる毎日を送り続けることになるのだ。

この頃から割とフランクに「ああ、死ねばいいか」と思うようになった。

これも、いまとなっては「俺には、いざとなれば死を選択肢に入れられるから、怖いものは無い」という開き直りになってるから、悪い事ばかりではない…のかもしれない。

実はこれをこじらせたある日、一回だけ警察のお世話になった事があるんだけど、それはまた別の機会にする。

 

死のうかな…と一旦思い始めると、何事にもやる気が起きなくなってしまう。

何か嫌なことがあると、すぐ死に逃げようとしてしまう。

自死を考えるのは色んな人の、色んなケースがあると思うけど、僕自身は「死を選択するのが一番ラク」という思いだった。

それでも、最終的にいつも踏みとどまったのは「まー、息子が不幸な気持ちになるだろうな。それだけいやだな」と思ったからだった。

一人トイレにこもって、死が自分を見てくるたびに「息子が明日も笑ってくれればいいなあ」と思って死を飲み込んできた。

どうしようも無くなった僕は、市の運営する相談ダイヤルに電話をした。

いわゆる一般で言うところの「いのちの電話」というやつだ。

正直架けたところでどうしようもない。そもそも何を話していいのかもわからない。

「ここに架けたから死を踏みとどまれました!」という体験談も、別に聞いたことが無い。

そして、僕は別に死を止めてほしいわけでもない。

何なら「あー、それはやばい。マジで死んだ方がマシかもしれないっすね」くらい、背中を押してほしいとすら思っていた。

矛盾してるのは承知だが、止めてほしくないけど、ここで死ぬのが正しい選択なのか自信が持てなかった。

なんか、さすがにいまこうして書くとゾッとするが「多分、今の自分は死を選択するのが合ってるんだろうけど…でもどうだろう」くらいに思っていた。

電話が繋がって、とりあえず今置かれている状況と、日々どんな気持ちで生きているかを喋った…気がする。ごめんなさい、実際にはあまり覚えてない。

多分、ここで「放課後デイサービス」を薦められたと記憶している。

放課後デイサービスとは、療育の必要な子を対象にした学童保育みたいなもので、名前の通り本来は学校が終わってから通所する場所だがうちのような不登校児も受け入れの対象になっているのだ。

存在は知っていたし、クリニックでも説明は受けていたが、そもそも外に出たがらない子をどうやって連れて行くのか、とか行ったところで続かないんじゃないか、とか。

何より、行きたくもないところに無理やり連れていくのはかわいそう…と思っていた。

うまく伝えられたかどうかはわからないが、上記のような事をモヤモヤと話した気がする。

すると、担当の方(一般の命の電話と違って、向こうは市の職員だったと思う)からは

「そうかもしれないけど…でもお父さんが死ぬよりはマシだと思うので、デイがうまくいかなかったらまた考えましょうよ」と言われた。

まあ確かに…死ぬよりはマシかも。

なぜかストンと腹落ちした僕は、その日から放課後デイサービスの情報を調べ始めた。

そして、送迎があってなるべく勉強よりも遊びの時間が長い所を見つけて、そこの見学に行った。

本人は、外に出るのも地下鉄に乗るのも不安そうで、着いても僕の背中にかくれてキョドキョドとしていた。

「みんな何かしら特性に悩んでる子達の集まりだし、最初はこんな感じなので大丈夫!」

と先生に言われ、不安ながらも登録の手続き等々を済ませた。

利用開始日当日も、随分不安そうに車に乗っていった。

なんとなくこっちも寂しく感じながら送り出したけど…それでも一人になった瞬間の解放感もすごかった。

誰にも邪魔されず掃除機をかけて、掃除機が終わってすぐソファに寝ころんだ。

目をつぶりながら考えていたのは「あー、笑って帰ってきたらいいなぁ」ということだった。多分、口にも出してた気がする。

 

 

そこから週3回、学校には行かないがデイサービスには通うようになった。

当然といえば当然だが、デイサービスでは特性に合わせて接してくれるので本人も居場所が作りやすかったようだ。

すごく印象に残っているのが、ある日デイが休みで家にいる時。

ずーっとゲームばかりやっていた息子が、紙に絵を描いていた。ゲーム画面をイメージした、人と何かのキャラクターが向かい合ってファイティングポーズをとっている絵。

本人からしたら何でもない、その時やりたいことをやった結果だったのだと思うが、僕にとっては数カ月ぶりに見た『ゲームの世界から少しだけ出てきた姿』だった。

うまく説明できないけど、この時に描いた絵を見るたびに、大変だったこの頃に少しだけ起きた幸せな気持ちを思い出すので、今でも冷蔵庫にマグネットで貼り付けて、たまに眺めている。

ここでちょっとずつ、家の外で人と遊ぶことに抵抗が無くなってきた彼は、また復学し始めた。

学校ともう一度よく話して、本人が出てこられる時間で行く事と、学習障害の状況に合わせた修学をしてもらう事を合意した。

この時点で2020年の1月。支援級での復学に失敗してから実に8か月が経っていた。

この頃、僕は在宅と夜勤の仕事を掛け持ちしていたので、ろくに寝る時間もなく毎日常に頭の血管がドクドクなってる音を聞きながら生活していた。

不思議なもので、あんなに『何かあれば死ねばいい』と思っていた人間が、いざ体が死に近づくと『このままだと死ぬ!早く寝ないと!』と毎日焦って過ごしていた。

それでも本当に少しずつ、元の生活が戻りかかっていた。

一応は子供は学校に行き、僕も仕事をしている。

しかし、そんな毎日が突然変わったのは、コロナによる緊急事態宣言だった。