59日目 息子は俺をトレースしてる
最近は息子が新日本プロレスの沼にはまっている。
試合がある日は、すべてNJPW WORLDで試合チェックしてるし、気づけば主要な選手のオリジナル技は大体技名を把握している。
若手まで顔と名前一致してるし…ほんと、はまったらとことんなのは僕と一緒。
ドロップキックの練習し始めたり、ザックの関節技見て自分の手足にかけてみたり。
最近は新日本プロレスのキャラ育成が出来るスマホアプリをずーっとやってる。君、FPSとスマブラ以外もできたんか…。
遂には、スマブラを自分で操作せず、CPU同士で対戦させて試合結果をメモしたりする「ファイプロ式ゲーム観戦」までし始める…
(過去にも一度、そういう遊びをしていたことがあるが、ここまで本格的じゃなかった…)
どこまで僕と同じ人生をなぞるつもりなんだ…。
でも、そんな息子とG1の優勝予想やその日その日の試合の感想を言い合うの楽しい。
思えば、周りにプロレスファンがそれほど多くなかったからな…(はむ太郎くらいしかいなかったのでは)
それが同じ家に住んでる人と話が出来るなんて、幸せ者なのかもしれない。
58日目 【後編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話
まあ、コロナの話を今更しても仕方ないんだけど…
北海道は、道知事の動きが相当早くて、他県よりも先に緊急事態宣言を発令させたと記憶している。
それによって、デイサービスも学校も休みになった。下の子の保育園はなんとか卒園まで運営してくれた。
卒園式の祝辞みたいのを僕がやったが、めちゃくちゃ恥ずかしかった。もう2度とやらない。
いまにして思えばすごい事だけど、感染者数が1桁みたいな日がしばらく続いて、4月の始業式(下の子の入学式)は通常に行われた。…けど、そこからすぐまた感染者数が増えて4月の新学期開始直後にまた休校、というような流れだった。
今度は、小学校だけでなく上の子の高校も、ついでに妻の仕事も休業となり僕は夜勤の仕事が無くなってしまった。
(夜勤の仕事については契約上問題もあったんだけど、それはここでは割愛)
ここで、入学したばかりの下の子が、学校に行けない事を寂しがって「ねえ、学校ってどんなことするの?」「どんな行事があるの?」としきりに聞いてくる。
それを聞いてた息子が、あんまり知らないくせに「小学校は、運動会と学芸会があって・・・給食食べて・・・」とか頑張って説明してて。
そのまま妹の『学校ごっこ』に付き合ったりしながら休みを過ごすうちに、下の子が「学校でちゃんと過ごせるかわかんない、こわい」と言い始めるようになった。
そのたびに「大丈夫だよ、僕も一緒に行くんだから」と答えていて『そんなこと言って大丈夫!?』と思ったんだけど…
いざ、休校が明けたらシレっと二人で学校行くようになった。
ほんと、拍子抜けするくらいあっさり。毎日遅刻もせず学校に行くようになった。
学校での授業も普通に受けているらしい(だいぶ遅れは出てるけど…)
どうやら『これは自分にしかできない事だ』と思うと体が動くらしい。
今までは『自分がいなくても誰も困らない』『自分が必要とされる場面は、学校にはない』と思っていたからいけなかったけど。
少なくとも、妹の不安に寄り添えるのは自分しかいない。だから学校に行く。
更に、いざ学校に行ってみると、いつのまにか下級生がいて、更に自分よりも重い障がいを持つ児童も沢山いる。
移動時に物を持ったり、人に何かを説明したり。場をまとめたり…自分の力が必要な場面は思っていた以上に多かったようだ。
そうして、息子の登校拒否は終わった。ここからは、コロナの学級閉鎖と病欠以外は毎日学校に行っている。
僕も、そこでようやく本格的に就職できるようになり、約2年ぶりに定職に就いた(まあ、そこからまた転職したけど)
支援級の級長になって、今日はあんなことをした、と聞いてもいないのに沢山教えてくれるようになった。
来週、普通級の子達と一緒に宿泊学習に行くが、それも楽しみなようでせっせと準備をしている。
ここまでの2年、仕事できなくてお金もかかったし、ゴール見えなくてほんと神経もすり減った。
ついでに言えばこれが全然ゴールじゃなくて、将来的な進路や就職の事、壁も課題も山積みだけど…
まずは今、子供たちが学校生活を送って、自分は仕事に出られているというこの状況に感謝して、毎日を送りたい。
57日目 【中編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話
1年生の秋口から登校拒否の始まった息子。当初選んだのは「特別支援学級」だった。
どの学校にもある、よく花とか木とかの名前がついてるあの特別学級の事だ。
「支援級にいくほどなのか…」とショックを受けたのが、ほんとにもう正直なところだったが、もう既に登校拒否をこじらせており、本人が行く気になってくれたら何でも良いと思った。
1年の冬から慣らしで通わせてもらい、2年になってから正式に支援級の児童となった。
だが、結果的にはこれが良くなかった。
まず、2年になってからついて頂いた担任の先生が支援級が初めてだったのもあってか、発達障害への理解が全く足りてない。
うちの子が読み書き障害だったのを把握していたはずだったが、音読や書き取りの宿題を普通に出してきていた。
更に、不登校からの復帰だったため「なるべく、給食までに登校する」という目標を立てていたにも関わらず、本人には「他の子達はもっと早く来ている」という注意をして早く来させようとする
これが決定打となって、息子は学校どころか外にも出なくなってしまった。この時、2年生の5月。支援級に入ってわずか1か月のことだった。
それから、息子はずーっと家にいた。
家でずーっとマイクラをやって、ごはんの買い物すらついてこない。
そして、ずっとゲームの話をしている。1分も黙っていられない。ずーっと喋ってる。
ADHDの特性の一つだとは聞いていたが、これが思った以上にきつい。家にいるならいるで、せめて用事の無いときは黙っていたいのだが、それが許されない。
掃除や料理をしている間も話しかけてくるからはかどらない…でも、妻が帰ってくるまでに終わってないと怒られる。
妻は、一旦機嫌が悪くなると子供達にも八つ当たりを始めるから、なんとしても家の事は妻の仕事中に終わらせなければならない。
いつになれば終わるんだこの生活…。
全く先の見えない生活は、3カ月くらいで限界がきた。
トイレに何分もこもったり「ちょっとお買い物行ってくるね」と言って30分くらい河川敷のベンチに座ってボンヤリしたり…。
そして、結局家事が手につかず、帰ってきた妻になじられる。
「ごめん…でもどうしても体が動かなくて」と伝えても「家の事もできないならいないのと一緒!」と怒られる。
ああ、居場所がないな…と感じた。
このままだといつまで経っても仕事は始められない。僕はずっと、子供の面倒を見ながら妻に怒られる毎日を送り続けることになるのだ。
この頃から割とフランクに「ああ、死ねばいいか」と思うようになった。
これも、いまとなっては「俺には、いざとなれば死を選択肢に入れられるから、怖いものは無い」という開き直りになってるから、悪い事ばかりではない…のかもしれない。
実はこれをこじらせたある日、一回だけ警察のお世話になった事があるんだけど、それはまた別の機会にする。
死のうかな…と一旦思い始めると、何事にもやる気が起きなくなってしまう。
何か嫌なことがあると、すぐ死に逃げようとしてしまう。
自死を考えるのは色んな人の、色んなケースがあると思うけど、僕自身は「死を選択するのが一番ラク」という思いだった。
それでも、最終的にいつも踏みとどまったのは「まー、息子が不幸な気持ちになるだろうな。それだけいやだな」と思ったからだった。
一人トイレにこもって、死が自分を見てくるたびに「息子が明日も笑ってくれればいいなあ」と思って死を飲み込んできた。
どうしようも無くなった僕は、市の運営する相談ダイヤルに電話をした。
いわゆる一般で言うところの「いのちの電話」というやつだ。
正直架けたところでどうしようもない。そもそも何を話していいのかもわからない。
「ここに架けたから死を踏みとどまれました!」という体験談も、別に聞いたことが無い。
そして、僕は別に死を止めてほしいわけでもない。
何なら「あー、それはやばい。マジで死んだ方がマシかもしれないっすね」くらい、背中を押してほしいとすら思っていた。
矛盾してるのは承知だが、止めてほしくないけど、ここで死ぬのが正しい選択なのか自信が持てなかった。
なんか、さすがにいまこうして書くとゾッとするが「多分、今の自分は死を選択するのが合ってるんだろうけど…でもどうだろう」くらいに思っていた。
電話が繋がって、とりあえず今置かれている状況と、日々どんな気持ちで生きているかを喋った…気がする。ごめんなさい、実際にはあまり覚えてない。
多分、ここで「放課後デイサービス」を薦められたと記憶している。
放課後デイサービスとは、療育の必要な子を対象にした学童保育みたいなもので、名前の通り本来は学校が終わってから通所する場所だがうちのような不登校児も受け入れの対象になっているのだ。
存在は知っていたし、クリニックでも説明は受けていたが、そもそも外に出たがらない子をどうやって連れて行くのか、とか行ったところで続かないんじゃないか、とか。
何より、行きたくもないところに無理やり連れていくのはかわいそう…と思っていた。
うまく伝えられたかどうかはわからないが、上記のような事をモヤモヤと話した気がする。
すると、担当の方(一般の命の電話と違って、向こうは市の職員だったと思う)からは
「そうかもしれないけど…でもお父さんが死ぬよりはマシだと思うので、デイがうまくいかなかったらまた考えましょうよ」と言われた。
まあ確かに…死ぬよりはマシかも。
なぜかストンと腹落ちした僕は、その日から放課後デイサービスの情報を調べ始めた。
そして、送迎があってなるべく勉強よりも遊びの時間が長い所を見つけて、そこの見学に行った。
本人は、外に出るのも地下鉄に乗るのも不安そうで、着いても僕の背中にかくれてキョドキョドとしていた。
「みんな何かしら特性に悩んでる子達の集まりだし、最初はこんな感じなので大丈夫!」
と先生に言われ、不安ながらも登録の手続き等々を済ませた。
利用開始日当日も、随分不安そうに車に乗っていった。
なんとなくこっちも寂しく感じながら送り出したけど…それでも一人になった瞬間の解放感もすごかった。
誰にも邪魔されず掃除機をかけて、掃除機が終わってすぐソファに寝ころんだ。
目をつぶりながら考えていたのは「あー、笑って帰ってきたらいいなぁ」ということだった。多分、口にも出してた気がする。
そこから週3回、学校には行かないがデイサービスには通うようになった。
当然といえば当然だが、デイサービスでは特性に合わせて接してくれるので本人も居場所が作りやすかったようだ。
すごく印象に残っているのが、ある日デイが休みで家にいる時。
ずーっとゲームばかりやっていた息子が、紙に絵を描いていた。ゲーム画面をイメージした、人と何かのキャラクターが向かい合ってファイティングポーズをとっている絵。
本人からしたら何でもない、その時やりたいことをやった結果だったのだと思うが、僕にとっては数カ月ぶりに見た『ゲームの世界から少しだけ出てきた姿』だった。
うまく説明できないけど、この時に描いた絵を見るたびに、大変だったこの頃に少しだけ起きた幸せな気持ちを思い出すので、今でも冷蔵庫にマグネットで貼り付けて、たまに眺めている。
ここでちょっとずつ、家の外で人と遊ぶことに抵抗が無くなってきた彼は、また復学し始めた。
学校ともう一度よく話して、本人が出てこられる時間で行く事と、学習障害の状況に合わせた修学をしてもらう事を合意した。
この時点で2020年の1月。支援級での復学に失敗してから実に8か月が経っていた。
この頃、僕は在宅と夜勤の仕事を掛け持ちしていたので、ろくに寝る時間もなく毎日常に頭の血管がドクドクなってる音を聞きながら生活していた。
不思議なもので、あんなに『何かあれば死ねばいい』と思っていた人間が、いざ体が死に近づくと『このままだと死ぬ!早く寝ないと!』と毎日焦って過ごしていた。
それでも本当に少しずつ、元の生活が戻りかかっていた。
一応は子供は学校に行き、僕も仕事をしている。
しかし、そんな毎日が突然変わったのは、コロナによる緊急事態宣言だった。
56日目 【前編】3年かけて息子が自分の居場所を見つけた話
昨日、めちゃくちゃ暗い話書いちゃったから、明るい事を書けるように頑張ります。
当時から今までの長男の状況について。
(過去、前垢の時から何度も書いてますが…自分用の備忘録も兼ねてまた書きます)
元々、体の成長が著しく遅れる先天的な障害を持って生まれた長男。
3歳時で、1歳の子達に混ざるとどこにいるんだかわからなくなるくらい小さかった。
それでも…いや、そのおかげなのかうちの家系にしては運動神経が良くて、保育園で3~4歳から1回教えただけで倒立や側転が出来てたそうな。
おゆうぎかいや運動会で、いっつも一番前で目立つ子だった。
でも、家では変にはしゃいだりもせずおとなしくいう事を聞く、いわゆる「いいこ」だった。
状況が変わってきたのは、保育園年長の最後の方。いよいよ遊びや運動ばかりじゃなくお勉強も、となったころ。
文集に書く「しょうらいのゆめ」が書けない。
いくらどう教えてもひらがなが書けるようにならない、と先生が頭を抱えていた。
その時点では『まあ確かに、自分の子供の頃も学級に数人いたよな…』くらいに思って気長に見ていた。
しかし、小学校に入学して、ますます状況が悪くなっていく。
音読ができない。プリントに書いている字も読めない。
字が読めないから、どの授業でも話にならないくらい理解が進まない。
「しまった…入学前にもっと一生懸命勉強させておくべきだった…!」
なるべく付きっ切りで音読に付き合ったり、宿題を見たりしたが…「なんて書いてあるかわからない」としか言わない。
一文字ずつ指をさせば読めるのに、文になると読めない。
そういったものがあると知った今なら「ああ、典型的なLDだ…」と思っていた所だが、当時の僕は不勉強で、そんなものの存在も知らなかった。
とにかく文に慣れさせるために、沢山本を読ませて沢山文字を書かせた。スパルタでも仕方ないと思っていた。
恐らく、学校でも同じような方針で指導してくれていたと思う。
そして、2学期が始まるころ。息子が、布団から出てこなくなってしまった。
最初は「ちょっと様子を見ながらいけるときにちょっとずつ行かせよう」と思っていたが、そんな日は全然来なかった。
そして、学校から「発達のテストを受けてみてほしい」と言われ、クリニックに連れて行き、そこでようやく、息子が発達に遅れがある事を知った。
発達障害は、大きく三つあるとされている。
・ASD(アスペルガー):コミュニケーションがうまく取れず、輪に入れなかったり、無意識に人を傷つける言動を取ってしまう
・ADHD:注意欠陥や多動。頭がごちゃごちゃして考えがまとまらず、物忘れが多くなったり黙って座ってられなかったりする
・LD:学習における障害。読み書きや簡単な計算など、通常は脳で整理できることがうまくできない。
息子の場合、これが3つとも該当する状態だと言われた。
周りの子達が当然のように理解していく事を、自分だけが理解できずにいる事に強いストレスを感じて、塞ぎ込んでしまっている、という事だった。
よく覚えてるのは、一緒にやった「バウムテスト」の結果。
"理想とする自分と、現実とのギャップの大きさに思い悩んでいる。年齢的に「自分が思ってるより、自分は能力の低い人間だった」という事を認める事はものすごいストレスだろう"
学校にいけない理由は、ずばりこれだと。学校に行くと現実の自分と向き合わなければ行けないから。
妻は、特に息子の学習障害を受け入れるのにかなり時間がかかっていた。
自分用の本棚を置くくらい本が好きな妻は「文字の無い世界で生きるなんて、本人はどれだけツラいか」と漏らしていた。
僕は…バウムテストの結果を見ながら「俺と同じだな」と思っていた。
「理想とする自分と、現実とのギャップ」「自分が思ってるより、自分の能力が低い」
こんなの、今まさに僕自身がぶつかってる事じゃないか。
そんな壁に、6歳の子供が当たってるなんて、どんなにつらいだろう。
かわいそうだな、親にも理解されなくてツラかっただろうな…
この時に、この子がどんな形でもどんな世界でもいいから、とにかく自信をもって前を向いて生きていけるように育てていこう、と決めた。
仕事を辞めて、ずっと一緒にいて、どうしたらこの子が自信を持って生きて行けるか考えよう…
ここからが、僕と地獄が一番接近する日々の始まりだった。
55日目 ワークライフバランスに振り落とされた5年間
RSが蔓延しきって、地獄のようだった。
なぜか長男と僕だけ元気。
木曜夜に、妻から「ねえ…明日一日仕事なの?」という圧が入り、泣く泣く会社に金曜有休をもらった。
(もう限界だから、助けてほしいって素直に言えないもんかね…)
自分が病気の子供達を見て、妻は外に出ててもらった。
家族のために働いてるんだから、家族が助けを求めてきたらそっちを優先するのが当然。
仕事は、今日明日休んだくらいでいきなり給与下げられたりしないから。
と言いつつ…悩む。家にいる間中、ずーっと悩む。
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脇目も振らず働いてたあの日は、ほんの4~5年前。
週2~3回は夜中まで働いて、休みには子供達と公園で遊んで、たまにはむ太郎んとこ遊びに行って実況動画撮って。
自分は会社に必要とされていたし、部署の運用構築に携わっていて忙しかったけど本当、毎日やりがいがあった。
でもそれが、子供達の発達の遅れが見えてくるにつれて段々と保てなくなってきた。
同級生と折り合えなくて不登校になった息子、なぜかそれにつられる形で登園できなくなった娘。
最初は妻が仕事を辞めて子供を見ていた。
でも、ずっと家にいる事を強いられることと、子供が思うように成長してくれないストレスで妻のメンタルが落ち着かなくなり、泣いたり落ち込んだりしてる様子が多くなってきた。
思い通りに動いてくれない子供にあたったり、一日中寝たまま過ごしていたりという事が増えてきた。
このままだと良くないと思い、時間の自由が利く仕事にしようと思い転職して、仕事以外はなるべく家にいるようにしたが、状況はどんどん酷くなっていく。
家の中で、常にだれかが泣いたり怒ったりしている。
ああ、もうダメだ。どこにも行きたくない、誰とも喋りたくない。この地獄から抜け出したい。逃げたい、逃げたい。
あの日から僕は、仕事に行けなくなった。いわゆる完全なうつ症状だった。
仕事に行くなんてもってのほかだが、仕事にも行けずただただ動けなくなっている自分を受け入れるのも相当苦しかった。
多分だけど、自分がああいった状況に陥るまで、まともな仕事をしていない人を自分自身が見下していたのだと思う。
そんな立場に自分がなってしまったことの不安とか絶望とか、そういう気持ちがお腹からボロボローっと出てくるような映像が視覚的に(もちろん自分の妄想上のものだという自覚はあるが…)見えてきて、ゾクゾクと毎日おぞましい気持ちになった。
今でもあの時の事を思い出すと、あの『不幸がお腹から突き破ってくるような感覚』がよみがえってくる。
しばらく家にいた。
元々、家にいる事がストレスだった妻は、これを機に働きに出るようになった。
しかし、本当に大変なのはここからだった。
家にいるとなると、家事は基本的に僕がやるわけだが、掃除も料理も、妻からありとあらゆるダメ出しを受ける毎日。
『ほこりが残ってる、ごはんの味が濃い、床に物が落ちている、これじゃいる意味がない、家にいて何もしないんだったらいないのと一緒』
今日現在ならはっきりとわかるが"モラハラ"の始まりだった。
お互いにメンタルが安定しないまま立場を入れ替えてしまったのが良くなかったのだと思う。
元々、妻にその気質がある事も否めないが…でもそれだけが理由ではないと思っている。
子供の不登校がいつまで続くのかもわからない。
在宅や夜勤での仕事を探して何とか自分を保つが、収入が安定しない。
もしかしてずっとこのままなんだろうか。
皆が良くある『普通の生活』を送っていた時、あんなに毎日が楽しかったのに。
もう無理だ
この人生を最後まで続けることはできない
何とか死にたい、死にたい。
明日死のう。今日がんばって、明日死のう。
文字通り『毎日』こういう事を考えてた。
恥も気にせず言うが、ちょうどこの頃「列ラジ」というYouTubeの生配信を毎週やってる時期だ。
多分、30回前後くらいの時期だと思う。
少なくとも肯定してくれる人達がここにいるというのが、まさに『生命線』になっていた。
夫婦の関係もぐちゃぐちゃで、具体的に離婚の話をし始めた頃、コロナが流行り始めて結局妻が仕事が出来なくなった。
仕方なく家族全員で家にいるうちに、何となくお互いの心持ちが健康的じゃなかったね、という話になった。
妻と二人で愛の不時着を見たり、リゼロを見たりしながら毎日を過ごした。
そして、一回目の緊急事態宣言が治まった(?)2020年5月。なぜか当たり前のように息子が学校に行き始めた。
(彼は恐らく、この時期の記憶が『コロナのせいで学校に行けなかった時期がある』くらいに書き換わっているだろう 笑)
そこでやっと僕は、会社員に戻った。
ようやく元の生活に戻れる…と安堵した
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実際には「元の生活」というにはまだまだ難しい事も多い。
そして、冒頭にも書いたような『妻のメンタル』と働く事とどういう風にバランスをとって行くか、いまだに毎日悩んでいる。
毎日、脇目も振らず働きたいと思う反面、家族みんなが幸せでいられるような立ち居振る舞いをしたい、とも思う。
今回の『自分入院→退院したら皆病気になってた』の流れで特にそれを考えて、またぐるぐる悩んでいる…
という、長文だけどそういうお話でした。
53日目 いつか報われる日がきてほしい
①
体力が無い。。。
だいぶ省エネにしてるつもりなんだけど、夜には完全にガス欠で夜10時にはちょっとボンヤリしてる。
まあそうだよね…今週初めまで寝るか起きるかくらいしか運動してなかったわけだし。
ほんとは、1日2日休んでから復帰でもよかったんだけど…実は俺が入院してる間に、留守を任せてたおばちゃんも入院しちゃってたらしく。
休む間もなく、退院後即復帰となりました。
急場凌ぎに前任の人が来てくれてたんだけど、運悪く現職が二人いないタイミングに瞬間最大風速な繁忙を迎えてしまったらしく。
『なんでこんなに忙しいのに、配置がこんなに足りないんだー』って怒ってたそうで…
ごめんなさい…僕の入院前、これの100倍暇だったんです。
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②
実は、退院してから子供達がみんな揃って発熱してて。
コロナは陰性。RSウイルスっていう、子供特有の喉やられるやつ。
最初は一番下の子だけだったらしいんだけど、僕が帰るころには子供全員感染。
それこそ、高校生の長女も熱出してる。うちの妻まで。
普通、RSって小さい子以外はそこまで大きな症状でないらしいんだけど…
反マスクでは全然ないけど、これはこれでコロナによって起きた弊害だろうなぁ、とは思った。
で、抵抗力落ちてるはずの僕は今日の時点でも全くの無傷。
これからくるのかな…怖いな…。
あと、次女の赤ちゃんがえりがひどすぎて一家全員イライラ。
家族各々が、僕に不満を伝えてくるが…
折れずに頑張る。折れずに頑張るぞ。